2013年7月20日 宮城県石巻市南堺第四仮設住宅にて炊き出し
今回は事前に、山形県のボランティア団体である、みどりの会の三浦会長代行と擦り合わせをして、合同の炊き出しとなりました。
現地コーディネーターの石巻市復興を考える市民の会の藤田代表からは、継続的に炊き出しや活動を行っている県外の団体は石巻市で、みどりの会と我々ライフサポート復興を支援する会の2団体のみなのが現状との事で、以前から合同での炊き出しは現実に向けた双方の会の願いでもありました。
今回、みどりの会では、山形郷土料理のダシ(複数の野菜を細かく刻んだもの)を豆腐の上に乗せてダシ豆腐と、玉コンニャク、そして我々ライフサポート復興を支援する会では、恒例のラーメンの炊き出しでした。やはり2団体の人数での炊き出しは大いに賑わいをみせました。仮設住宅で避難生活をされてる方々が沢山沢山お見えになられました。
その中で、80歳になろうかというおばあちゃんが集会場の前のベンチで私にお話をしてくださいました。
『ごわがっだ(怖かった)ごごごごごごごぉ~ってよぉ すんごい地鳴りのような音がしたんだぁ そんだら 後ろに黒いカベが迫ってきたんだよぉ ごわがっだぁ』
と、当時の思い出したくもないだろうお話をしてくれた。
そのおばあちゃんは、海辺から200mしか離れていない所に住んでいたんです。当時は、向かいの住人に
『ばあちゃん 乗ってけ 逃げるぞ』
って車に乗せてもらって日和山公園に向かったそうなんですが、その時の避難途中のお話しでした。
何もかもをなくしたおばあちゃんは、地元の小学校の体育館での生活になりました。
長い長い体育館での生活、正直うんざりで、生きている心地がしなかったとお話しされていました。ですがその長い体育館での生活から、仮設住宅の抽選が当たったとの報告を受け
少ない荷物を持って仮設住宅に移動したんですって
『わだしね(私ね)仮設住宅に移った時 あぁあぁ涙でだんだよぉ』
そりゃ、体育館ではプライベートも何もない所から移った時の喜びなんだろうなぁと私は思った。
おばあちゃんはまた話始める
『仮設住宅の玄関を開けたらよ、新しい布団も、鍋も電化製品も、箸も米10キロも全部そろってだんだよそれ見た時本当に心から叫んだよぉ』
沢山涙流しながら
『おらぁ いぎでいげるがなぁ~』
って、その方言のような言葉が、「私、生きていけるなぁ」って言っているんだというのはすぐに分かった。
部屋も狭いし、寒かったろうけど、部屋には70品目の生活必需品がそろってたんですって、
それをみて、おばあちゃんは、明らかに、生きる希望を持ったのだろうって思いました。
私も涙がでてしまいました。
そしておばあちゃんがこう言ってくれました。
「あんた達が来てくれる事もその時ぐらい嬉しいんだぁ また来てくれるがなぁ?」
って、
私はもう、、、、、崩れ落ちるように泣きじゃくりました。
「嬉しかった」被災者に元気を与えに活動している我々は、気がついたら、
いつも被災者に元気をもらってるんですよね
私は、津波の轟音も、黒い壁も見ていない・・・・・。本当に大変な思いをされた人達が、我々に感謝してくれている、何よりも生き生きしてくれている。生命は理由があってこの世に存在している。
今、生きている全ての生命に理由がある。少しだけ理解できた気がします。
『あんがとう!ばあちゃん!またぐるよぉぉ!』
ライフサポート復興を支援する会理事長大関真悟