今回我々が訪れたのは、宮城県石巻市渡波第二仮設住宅でした。
この地域は、湾に恵まれ 「ホタテ」の養殖で有名です。
しかしながらホタテは、種付から収穫まで3年の歳月がかかり、東日本大震災の津波の影響で、3年分の養殖ホタテは、全て無くなってしまったとの事でした。
震災から数か月して、種付をスタートさせましたが、以前の10分の1程度であり、
少ないホタテの収穫までは、まだ1年半かかるとの事でしたので、この地域のホタテの養殖業者は、震災から
ずっと収入はなかったとため息をついておりました。
最近では、訪れた自治会の会長さん達との会話を大切にしていますが、
あれから2年半、、、、会長さん達から、震災当初のお話をするようになりました。
これも大きな大きな前進に思えます。
あの日・・・・・・・。
地震にて石巻市は市全体で停電になりました。
停電になると携帯電話の電波も中継基地のアンテナが電波を発さない為に
繋がらないようです。
しかし、この地域の方達は、1933年昭和三陸地震によって、多大な被害を蒙った
地域なので、地域の人達は、津波に敏感だったようです。
ご先祖様から、「地震が来たら高い所に行け」という事を、常日ごろから言われていました。しかし、地震後、テレビも無く 車のラジオだけが頼りだったようです。
「気象庁が3mの津波が来るってよ」
渡波地域の人達は、声をかけあっていたようです。
「3mならてーしたことねーな」
気象庁の3mの予想、これに安心してしまったのは言うまでもありません。
しかし、
「おぃ! やっぱり6mになったってよぉ」
気象庁は、3mを訂正したようです。最終的には10mの予想を出したのですが
実際に町を襲った津波は、20m以上だったのです。
湊小学校の屋上に避難した、自治会長は、小学校に押し寄せる津波を見て
立ち尽くしたという。
数百名が避難している屋上なのに、誰ひとりラジオが無く、
夜になっても、外は、船のオイルが漏れて火の海だ・・・・・。
警察も来ない、ヘリも飛んでいない、
救助がない・・・・・・。
『日本中がこの状態なんだ・・・・きっと沖縄も沈んだんだろう』
と思ったようです。
非常食を持っていた人達もいたが、とてもじゃないが自分達だけ食べられる状況じゃない
とおっしゃっておりました。
自治会長は、リュックに小さいマヨネーズが入っていたらしいのですが、
人差し指をみんなに出してもらい、みんなにちょっとづつ、差し出された指につけていったようです。
それでも即、マヨネーズは、なくなってしまったようです。
3月の東北ですから、逃げる途中、津波をかぶり服がビショビショで凍えてしまうので
裸の人も沢山いたようです。
『ラジオがない、携帯電話が繋がらない、状況が分からないのは本当に不安で、正直、食欲を満たすよりも日本の状況を知りたかった』
との事でした。
実際に、携帯電話の電波が復活したのは、1ヵ月後の4月10日、ソフトバンクの
移動中継アンテナ車が石巻に来て繋がるようになったとの事でした。
自治会長が言いました
『私達は、先代の昭和三陸地震の教訓を無駄にしてしまった・・・・・。
気象庁のせいにもしたいけど・・・・亡くなった命は帰ってこねぇんだよ』
自分だったらどうしていただろう・・・・・。
自治会長の言葉が、自分に重く重くのしかかりました。
我々は、この東日本大震災という、国の一部を破壊した国災がどれほどの被害があり
どれだけの恐怖を被災者に植え付けたか、将来に繋げていかなくてはいけません。
だからこそ、現在、未だ30万人以上の被災者が、先の見えない不安な生活を余儀なくされている事、まだ東日本大震災は終結していないという事を、日本人として、
肝に命じなくてはいけないと思います。
決して、背を向けてはいけない現実が、被災地にはあります。
ライフサポート復興を支援する会 理事長 大関真悟